「シュレディンガーの猫」から見る、「夢と言葉」

シュレーディンガーの猫 - Wikipedia

人間の発言は常に主観である。

そんなことを考えながら、私は今日、職場の彼のライブを見ていた。

 

というのも、「夢を追いかけること」について考えていたのだ。

 

「大人になっても夢を追いかけようぜ。夢をあきらめた大人なんてつまらない。」

そう言うのは、いつも

いつまでも夢を叶えられず、でも諦めきれない人間なのである。

叶わないかもしれない夢を追いかける自分を正当化するために、

自分のために吐く言葉である。

 

では逆に

「いつまで夢を見ているんだ。いい加減現実を見ろ。」

そう言うのは、夢を諦めた自分を慰めるために

そして、正当化するために吐く言葉である。

 

夢を叶えた人の発言は、その成功例の一つにすぎない。

 

私は、決して、夢を追うことを馬鹿にしているわけでも

諦めることがダサいと思っているわけでもない。

 

ただ、”誰の言葉も参考にならない”ということを考えていただけだった。

 

人の発言は、すべて、その人の今の状況が発させる言葉であり

そこに、「客観性」というものは存在しないのだと。

そう、タイトルにもある「シュレディンガーの猫」。

これを私は夢と人の発言に置き換えていた。

 

夢がかなう未来と叶わない未来が半々の確率で

箱を開けるまでは両方の現実が存在している、

ということは、あり得ないのである。

 

発言はどちらかの現実から来ている。

 

いまはまだたくさんの選択肢を選べるそこの君も

もう自分にはこれしかないと決め込んでいるあなたも

何も考えていないわ。と思ったお前も

一旦立ち止まって足元を見てみてはいかがだろうか

 

ただ、これだけは伝えておく。

自分のために、いつかの自分がなんでも出来るように、

選択肢はできるだけ増やしておこう。

 

逃げ道とかではない。君が、君の人生を選ぶために。