「シュレディンガーの猫」から見る、「夢と言葉」
人間の発言は常に主観である。
そんなことを考えながら、私は今日、職場の彼のライブを見ていた。
というのも、「夢を追いかけること」について考えていたのだ。
「大人になっても夢を追いかけようぜ。夢をあきらめた大人なんてつまらない。」
そう言うのは、いつも
いつまでも夢を叶えられず、でも諦めきれない人間なのである。
叶わないかもしれない夢を追いかける自分を正当化するために、
自分のために吐く言葉である。
では逆に
「いつまで夢を見ているんだ。いい加減現実を見ろ。」
そう言うのは、夢を諦めた自分を慰めるために
そして、正当化するために吐く言葉である。
夢を叶えた人の発言は、その成功例の一つにすぎない。
私は、決して、夢を追うことを馬鹿にしているわけでも
諦めることがダサいと思っているわけでもない。
ただ、”誰の言葉も参考にならない”ということを考えていただけだった。
人の発言は、すべて、その人の今の状況が発させる言葉であり
そこに、「客観性」というものは存在しないのだと。
そう、タイトルにもある「シュレディンガーの猫」。
これを私は夢と人の発言に置き換えていた。
夢がかなう未来と叶わない未来が半々の確率で
箱を開けるまでは両方の現実が存在している、
ということは、あり得ないのである。
発言はどちらかの現実から来ている。
いまはまだたくさんの選択肢を選べるそこの君も
もう自分にはこれしかないと決め込んでいるあなたも
何も考えていないわ。と思ったお前も
一旦立ち止まって足元を見てみてはいかがだろうか
ただ、これだけは伝えておく。
自分のために、いつかの自分がなんでも出来るように、
選択肢はできるだけ増やしておこう。
逃げ道とかではない。君が、君の人生を選ぶために。